気付くと目の前を双子の兄が走っていて、自分はその背中を追いかけているところだった。あたり一面は見渡すかぎりの野原、空はまぶしいほどの快晴。ときおり羊と、それを追う人影と牧羊犬が見えるだけで、他には何もなかった。絵に描いたようなのどかさ。得がたい平和。けれど今の自分は、まだそれを知らない。
兄は何が楽しいのか絶えず笑い声をもらしていて、それにつられて自分も笑っていた。走りながら笑い転げるものだから息が苦しかったけれど、それでも楽しくて笑い続けた。ばかみたいに笑う兄弟を見やって、羊飼いのひとりが苦笑しながらこちらを見ている。それを受けて、とうとう兄は立ち止まって、目尻に涙を浮かべながら腹を抱えて笑い出した。
一緒になって笑いながら、途切れ途切れに何で笑っているの、と聞けば、ノアが笑うから、と返されて、もう歯止めが聞かないくらいに爆笑する。ノアは何で笑っているの、と聞かれて、そりゃ兄さんが笑うからさ、と返すと、兄も同じ状態に陥った。
ひとしきり笑ったあと、ごろりと草の上に寝転がって息を整えながら、目の前に広がる空を眺める。どこまでも青く広がるそれを見ていると、とつぜん何とも言いようのない不安に襲われた。…ああ、なんて大きくて静かな空なんだろう。そのうちに何もかもを呑み込んでしまいそうだ。
隣で兄が立ち上がる気配を感じて、急いで自分も身体を起こした。どこへ行くの、と問えば、別にどこにも行かないよ、と返されて安堵する。そのくせ兄は歩き出してしまっていて、慌ててその後を追った。兄さん、どこへ行くの。
しばらく兄の後を追いかけ続けて、やがて草原の端、小川の流れる場所に辿りついた。遠くに見えていた羊の群れも、もう見えない。ここから先は村の外で、うかつに足を踏み出してはいけないのだ。
それでも兄は構わずに、小川に足を踏み入れる。兄が歩いた場所に水しぶきが立って、日をうけた水の粒がきらきらと輝いて、とても綺麗な光景だった。しばらく見とれたあと、兄さん、と声をかけると、兄は振り向いてこちらに手を伸ばす。一緒に行く?ノア。日に照らされた腕が白く光って、妙に作り物めいて見えた。
行かない、と言って足を踏んばる。村の外になど出るものか。これから兄さんと自分は他愛もない話をしながら家に帰り、母の作ってくれた暖かな食事を摂り、やわらかなベッドで何の不安もなく眠るのだ。…いや、そうしなければならないのだ。
兄さん、帰ろうよ。そう言って恨みがましい目で睨みつけても、兄は困ったように笑うだけで、こちらに来てはくれない。大丈夫、すぐに戻ってくるから。そう言い残すと、こちらへ差し出していた手を引っ込めて、あちらへと歩き出してしまう。すぐに戻ってくるよ、ノア。
嘘だ。ここで行かせてしまったら、兄は二度と戻ってこない。そのことを知っている。兄は戻ってくることなく、母は病気で痩せ細り、自分は兄への憎悪で身動きが取れなくなるのだ。何もしてくれなくてもいいから、多くを望みはしないから、ただ側に居てくれるだけでいい。お願いだから、ここを離れないでくれ。ああ、自分はそのことを知っているのに。
もう兄は手のとどかない場所へ行ってしまっている。行かないで、とすがるような気持ちで言うのに、兄は振り向くだけでこちらに戻ってきてはくれない。すぐにもどってくる、と兄の口が動くのを見て、もはや声も届かないのかとゾッとした。…違う、それすら嘘だ。だって気付いてから今までの間に、自分たちが声を出して話したことなど、一度もなかったじゃないか。
それに気付いた途端、背筋を冷たいものが流れていくのを感じて身震いする。では、もう言葉の通じない兄は何なのだ。そして、兄の言葉を聞きとれない自分は。
自分たちは今まさに、物理的な距離ではなく何かもっと根本的なところ、深く繋がったところから切り離されてしまったのではないのか。
兄の姿が小さくなって、とうとう空に吸い込まれるように消えていく。その様子を見ても、自分はここから動けない。動いてはいけないのを知っている。
そして小さな後ろ姿の全てが消えるまえ、大きく息を吸い込むと、あらん限りの声で叫んだ。「兄さん!」
眠りから覚めると、身体中にじっとりとした厭な汗をかいて、息は長距離を走った後のようにあがっていた。喉が異様に渇いている。サイドボードに手を伸ばして水差しを掴むが、すぐにそれが空だと気付いて置きなおした。喉が異様に渇いている。
なにか、とても懐かしくて優しくて、同時にひどく恐ろしい夢を見ていたような気がした。いまだに、幸せに包まれた甘い気持ちと、頭の芯が凍るような絶望が自分の中に渦巻いている。
――思い出してはいけない。それを思い出したとき、今の自分は駄目になる。何故だかそう直感して、本能的な恐怖を感じた。その感覚から逃れるように、深く布団をかぶって視界を閉ざす。
すると唐突に、幼いころ窓に映る影を恐がって毛布に隠れたことを思い出し、今も昔もさして変わらない、と苦笑する。あの時から何も進歩していない。…ああ、そういえば。あの時だって、みっともなく泣きじゃくる自分をなだめに来て、手を差し伸べてくれたのは。
そこまで思って、もう一度深く布団をかぶり直した。きつく目を瞑り、半ば強引に眠りに向かって落ちていく。
――思い出してはいけない。こちらに向かって差し出された、幸せと慈愛の象徴のような白い腕が目蓋の裏に張り付いて離れない。それを掻き消すように頭を振りながら、祈るように思った。思い出してはいけない。それを思い出したとき、自分のすべては駄目になる。
弟さん、あまりにお兄さんと会えないものだから、
やたらと脳内お兄さん美化が進んでますね。
そろそろ会いに行ってやらないと(会うだけじゃなく話もしないと)
次に会ったとき「違う!おまえは俺のバッシュじゃない!」
とか言われちゃうよ。ブラウザを閉じてお戻りください